グラード財団研究所・地球環境研究室


       それがの赴任先だった
       研究所、というこじんまりとした名称ではあるが、その網羅する研究領域は財団の名に相応しく多岐にわたる
       敷地の面積も広大なもので、が在籍していた大学のキャンパス一つ分よりも遥かに広い
       ともすると、中規模の大学一つ分以上の広さはあるかもしれなかった

       財団の研究領域が膨大な広さに及ぶ以上、研究のための建物もまた膨大な数に及ぶ
       上は宇宙工学から下はナノテクノロジーに至るまで、それぞれの分野に付き一つづつの研究棟が贅沢にも与えられていた

       充実しているのは建物だけでなく、勤務する人材も相当数に上る
       敷地の中では、背広・白衣姿からシャツにジーンズまで、様々なスタイルの研究者達が闊歩している
       一様に、首から写真つきのネームプレートをぶら下げているが、それはおそらく門を入る際の検問用を兼ねているのであろう
       の通っていた大学の学生証と同じく、スキャン用の黒いラインが裏側に入れられていた




       の赴任先は、敷地の中でも比較的大通りに面した場所にあった
       外観はそれほど大きくは無いが、内部は一つの部屋が広めの間取りになっているためか、閉塞感を感じさせることはない

       大学と同じ…いやそれ以上に器具類や設備が充実し、新入社員・の胸は期待に高鳴った



       ……だが、最初の一ヶ月間、には任務と呼べる仕事は与えられなかった
       それは当然と言えば当然であるのだが、は少々鬱屈した心地だった
       新入社員の印である青色の腕章を付け、研究棟のあちこちを見学して回るの姿がそこにはあった
       水母のようにたゆたいながら、一体いつになったら自分は研究を開始することができるのだろう、とは焦燥感に駆られた

       研究室の人達も、皆一様に人当たりが良く、尚且つ高い研究能力を有しているのがの目にもすぐ判る
       それだけに、一刻でも早く彼ら、彼女らとの共同研究に踏み出したいと切に望んでいた
       …少しでも早く、社会に貢献しているという実感を得たい
       逸る心を抑え付けられ、の気持ちは空回りを続けていた







       一月半が過ぎた頃、は直属の上司に呼び出された
       研究に携わっていない以上、特に何かミスを犯したと言うわけでもなさそうだ
       一体、何事だろうか
       …もしかすると、ようやく何らかの研究メンバーに加わることが許されるのかもしれない
       の胸の内が、再び期待に熱くなり始めた


       ここに来る事を勧められた日と同じく、は今度は上司の部屋のドアの前に立っていた
       軽くドアをノックした後、は自分の名を名乗った


       「君かい?…ああ、入って入って。」


       部屋の内から、機嫌の良さそうな上司の返事が帰って来た
       …とりあえず、何か私がミスをしたわけではないようだ
       少しホッとして、は勢い良くドアを開けた

       40代前半のその上司は、いつもポロシャツの上から白衣を羽織っている
       無頓着な人格がその服装にまで反映されているようで、に取ってはとても好ましい印象を与えていた
       彼は大概、機嫌・不機嫌の波があまり無く、大学の教官のように無意味に気を使う必要も無いのがには有り難かった


       「ああ、こっちこっち。」


       上司の手招きに応じて、はデスクの方に身を乗り出した
       …企業の研究室にも関わらず散らかり放題の部屋の有様に、は初めて入ったとき一種の懐かしさを覚えたものだったのだが。
       数多の障害物を避けながら、は上司のデスクまで歩み寄った


       「どうだい、此処の研究室は?」


       上司は、ニコニコしてに言葉を掛けた
       その様子があまりにも嬉しそうなので、は今度は少し不安になってきた

       …どうやら、研究開始の告知ではないようだ、おそらく

       肩を落としかけて、はもう一度気を取り直した

       …焦ってはいけない、もう少し、もう少し

 
       「はい、皆さん良い方ばかりでとても安心しました。…設備も大学より充実していますし。」

       「ほうほう、そうかい。それは良かった。新入社員は、概して馴染めなかったり燃え尽き易いからね。
        いや、それなら良いんだ。」


       頭を掻きながら、上司は顔を綻ばせた


       「…あの…。御用事は一体何でしょうか?」


       …このままでは一向に埒が開かない

       恐る恐るは顔を上げて尋ねた
       途端、上司は更に笑みを満面に浮かべた

       …本当に、一体何があったんだろう


       「いやね…、君、この財団の現在の総帥が誰だか存じ上げているかい?」

       「…は?…え…え―と…。」


       総帥と自分に一体何の接点があるのか良く飲み込めず、は言葉に詰まった
       何が何だか良くわからないと言ったの表情に、上司はどこか満足したように言葉を続けた


       「…そう、現在の総帥は、城戸沙織と仰って、創始者・城戸光政氏のお孫さんに当られるお方だ。
        13歳と言う若さでいらっしゃるのに、総帥の激務をこなされていらっしゃる。」

       「…は、はい。」


       財団の総帥が創始者の孫娘であることまでは知っていたが、13歳であることまでは知らなかったは驚いて返答を濁らせた

       …だから、一体その人と自分が何だと言うのだろう


       「…まあ、御年はともかくだ、我々のような社員に取っては雲の上におられるようなお方なわけだ。
        …その城戸沙織総帥が、君、君にお話があるとの知らせが僕のところに入ったんだよ。しかも、直々にだ。
        いいかい、これは大変名誉なことなんだよ。判るかい?」

       「はい。…しかし、一体何のお話なのでしょうか?私には心当たりは無いのですが。」

       「それは、僕にも判らない。…だが、何か御用事がおありなのだろう。
        もう、迎えの車まで外に寄越されて来ている。
        …とにかく、速やかに伺わせて頂きなさい。今日はもうこっちの仕事はいいから。いいね?」

       「…はい。」


       まるで事情が飲み込めぬまま、は上司の部屋を退出して着のままの状態で研究棟の外に出た
       上司が先ほど言った通り、建物の玄関口には黒塗りの外車が停まっていた

       がぼうっと立っていると、車の中から男が一人降りてきた


       「さんですね?俺、いや私は迎えの者です。…さあ、どうぞ乗って下さい。」


       男は、ゴツゴツと節ばった大きな手を広げて車の後部座席を指した

       背の高いその男は、明らかに日本人ではなかった
       短く、癖のある金髪が、燃える様に太陽に反射する
       研究所の男性陣とは異なり、ベストを身に付けたシャツの上からでもその身体ががっしりと鍛え上げられているのがよく判った
       ガードマンかとも思ったが、どこか人の良さそうな表情から考えるとどうやらそうでも無いようだ


       …この男を詮索しても仕方が無い

       は男の指す座席に乗り込んだ














       車は、研究所の門をノーチェックで抜け、大通りをひた走った
       まだこの土地に不慣れなには、この車が一体何処に向おうとしているのか、皆目見当が付かなかった
       だが、徐々に人気の少ない森の中に移動しつつあることだけは敏感に感じ取っていた

       …おそらく、自分はこれから総帥の屋敷か本部あたりに連れて行かれるのだろう
       そこで一体、自分の身に何が待ち構えているのか

       は心の中で幾つかの予測を立ててみたが、そのうちのどれ一つとして自分を納得させることは不可能だった


       「あの……私はこれから何処へ行くのですか?えっと…。」


       は思い切って隣に座る男に尋ねてみた
       の隣で移り行く窓の外を見遣っていた男は、組んでいた足を元に戻し、の方へ向き直った


       「アイオリア、だ。君は……だったね。
        今後、何かと顔を合わせる機会も有る事だろう。よろしく頼む。」


       金髪の青年は俄に微笑むと、右手をに差し出した

       …この人、笑うと何と優しい目をするのだろう

       は、この信頼に値しそうな男が差し出した大きな右手を握り返した


       「…よろしくお願いします。アイオリアさん。」


       の返答に、アイオリアは不思議そうに目を寄せて笑った


       「アイオリア、で良いよ。さん付けは好きじゃない。」

       「あ…はい。えっと、それで…アイオリア、私達はこれから何処へ行くのでしょう?」


       の問いに、アイオリアは急に前を向いた


       「アテ…グラード財団総帥の私邸だ。
        …、君は何も聞かされてないのかい?」

       「…ええ。特に、何も。」

       「そうか…。ア、総帥は君に、何か特別の任務をお下しになるのではないかな。」

       「特別な任務?」

       「…尤も、その内容までは私も預かり知らないが。だが……。」

       「だが…?」


       はアイオリアの顔を覗き込んだ
       正面を向いたまま顎に手を当てて考えに耽っていたアイオリアは、の顔が自分の至近距離にある事に気付くと慌てて後ろに身体を反らした


       「いや、多分俺の杞憂だ。俺の言う事ではないが、総帥は複雑な身の上でいらっしゃるからな。
        …力になってくれると嬉しい。」

       「貴方に取って、総帥はとても素晴らしい方なのですね、アイオリア。」

       「あ…ああ。」

       「ふふ。」

       「…何だ?」

       「いいえ。その方にお会いするのがとても楽しみになってきたと思って。」


       微塵も臆する気配など無くがさらりと言い退けたので、アイオリアは一瞬、ぎょっとした

       …只の研究者肌の人間だと思っていたが
       成る程、女神の人選もあながち根拠の無い訳ではないのだな

       アイオリアは、誰に対するでもなく頷いた







       「アイオリア。貴方、『私』よりもその『俺』の方が似合っているわね。」







       女神の英断に心服していたアイオリアは、のその斜めからの鋭い発言に再度度肝を抜かれた


       「…そうか。いつも『俺』で通しているからな。
        無理に改めても不自然かもしれないな。」


       …なら、彼女ならきっと適材だ
       これ程の度量の持ち主であれば、きっと女神のご期待に適うはず


       「改めて、よろしく頼む、。」


       アイオリアは、に再び…今度は心からその右手を差し出した












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